弱さは人間関係の潤滑油<br>この病気になってよかった

目良 賢治さん

JSN茨木】を経て就職

弱さは人間関係の潤滑油
この病気になってよかった

【JSN】が開所して18年。初期の頃の卒業生が就職先で働き続け、ベテランスタッフとして活躍している姿を見ると、とても励まされ、教えてもらうことのほうが多いと実感します。
今回ご登場いただく目良さんは、卒業後は「語り部の会」のメンバーとして、全国各地で体験談を発表して下さいました。一言一言の重み、ハッとさせられる言葉の数々に、同行した金塚統括所長は何度も涙したそうです。

開閉式のホームドアが
あの時もしなかったら・・

-「語り部の会」では、全国各地の講演で体験談を語って下さいました。学生時代はバックパックで世界中を旅していたという目良さん。子どもの頃はどんな夢を抱いていましたか?

私は父親が警察官という家に育ちました。「将来は警察官になったら?」と言われていたのですが、運動というより体育会系の縦社会が苦手だったため、自分から志すようなことはありませんでした。反対に英語が得意だったため、外国語大学に進学しました。その頃の夢は大学の先生になることでした。学生時代から数えてこれまでに24ヶ国を旅しました。

-目良さんは英語がペラペラです。

TOEICは800点台でしたが、英検の1級がどうしても取れませんでした。先生になるのは無理かなぁと考え、就職活動を始めたのですが、ちょうど就職氷河期。民間企業から内定をもらうことができず、公務員試験を受け、父親と同じ警察官になる道を選びました。

-警察官としての人生がスタートします。

まずは警察学校に半年間在籍し、訓練を積みます。全寮制で毎朝6時半に起きて、朝食前に1500m走ることから始まります。その後、剣道場の雑巾がけをしてから食事を摂り、授業を受ける毎日でした。

-厳しい日々です。

全寮制なので6人部屋で、朝は目覚ましを使ってはいけないというルールがありました。校歌がアラーム代わりに流れるのですが、大きな音ではないので「寝坊したらどうしよう」と思うとだんだん眠りが浅くなっていきました。連帯責任なので、自分が寝坊したら同室の先輩が罰則を与えられます。腕立て50回とかだったのですが、自分のことが原因で他の人がさせられるというのは、耐えがたいものがありました。

-それは辛いですね。

一晩中眠れなかったり、2~3日間起きたままということが続きました。訓練自体も苦手なことばかりで、後のカリキュラムには足のつかないプールで泳ぐ訓練などが予定されていました。先のことを考えすぎて潰れてしまい、2ヶ月で学校を辞めることになりました。

-辞めた後はどうされましたか?

すぐに横浜で親戚が営んでいる仕事を手伝いに行きました。仕事自体は問題がなかったのですが、夜まったく眠れなくなったり、警察学校時代のルールを守り続けたりして、どんどんおかしくなっていきました。1週間くらい経った頃に、親戚が実家に連絡を入れてくれて高槻に戻ることになったのですが、帰り道では自分を責め続けていました。新横浜駅の新幹線のプラットホームから線路に飛び込もうとしたのですが、ちょうど開閉式のホームドアが設置されたばかりの頃で、飛び込むことができず、心配した母親が新幹線の京都駅のプラットホームまで迎えにきてくれました。

-一命をとりとめた・・・

帰宅した日の夜に「自分のせいで親も死ななくてはいけないのではないか」と思い、怖くなって大声を出しました。救急車で精神科に運ばれ、初めて受診しました。

「支援があれば働ける」
背中を押されJSNへ

-そこから通院生活が始まります。

最初に救急で運ばれた病院の先生と合わず、転院。その後1ヶ月ほど通院しても改善せず、家を飛び出して死のうとしたこともあります。両親が自宅では診きれないと判断し、2ヶ月間入院。22歳の時です。

-大学を卒業してから、まだ半年も経っていない頃です。

3月に卒業して、7月には入院していました。退院後、1年半ほどは両親の友人の仕事の手伝いをしていました。その後、安定してきたので貿易会社に就職しましたが、仕事のミスで再発。1年半で退職しました。その後は1年ほど自宅にいました。その頃に母親が診療所のデイケアを見つけてきて、通い始めました。

-自分の病名を知ったのは、いつ頃ですか?

そのデイケアで、統合失調症だと告げられました。自分自身も病気のことを詳しく知らず偏見もあり、病名を知って落ち込みました。しかしそれを機に色んな本を読んで、病気について勉強しました。

-「働きたい」という気持ちはいつ頃から抱くようになりましたか?

デイケアで「働きたい」と伝えたのですが、「無理に働いて再発してしんどい思いをするくらいなら、無理せずに生活保護をもらって暮らせばいい」と言われました。当時はそれが一般的だったのだと思います。が、まだ20代半ば。仕事をしなければ元々好きだった旅行もできませんし、病気になる前の知り合いに会ったりするのもしんどい。先の人生を考えると受け入れることができませんでした。

-今から20年ほど前は、精神障害者が働くということが一般的ではありませんでした。

その後は作業所に通ったのですが、4時間働いても工賃は400円。やっとのり弁が買えるくらいの金額です。それでも生活リズムを安定させるためと割り切って、半年ほど通いました。安定してきた頃にハローワークに一人で行き、仕事を探そうとしたのですが、作業所の指導員の方から「通所者が自分で仕事を探しに行くなんて、考えられない」という反応をされました。

-作業所に一生通い続ける人も多かった。

転機になったのは、二回目に通ったデイケアです。再度入院し、退院した時に別の病院のデイケアに通い始めました。2008年、スタッフの方から「【JSN】という就労移行支援事業所が開設し、もうすぐ茨木にもオープンするので通ってみませんか?」と声をかけていただきました。病院内の喫茶店で短期間トレーニングを積み、開設してしばらく経った【JSN茨木】に入所しました。

-スタッフさんの言葉に後押しされた。

「目良さんなら支援があれば働ける」と言ってもらえたことが、とても大きかったです。

-【JSN茨木】で印象に残っていることはありますか?

所内訓練の後、2ヶ所の企業実習に行きました。スーパーでの実習中にお米の袋を破ってしまったことがあったのですが、報告して謝罪したところ「人は誰でもミスをするから大丈夫」と言われ、とても安心したことを覚えています。

-その後の就職活動は順調でしたか?

25ヶ所に応募書類を送ったのですが、面接に漕ぎ着けたのは2社のみでした。それでも諦めずに進めたのは、【JSN】でこれだけの訓練を積んだのに、後戻りするのが嫌だという気持ちが強かったからです。前に進むしかない、と思っていました。

弱さは人間関係の潤滑油
この病気になってよかった

-入所から9ヶ月目で、現在の会社に就職されました。

障害者の方が立ち上げた介護事業所で事務職を担当しています。今は電話も受けられるようになりましたが、入社当時はとても苦手。「出なくていいよ」と配慮していただき、最初は仕事の幅も絞って下さいました。

-どのような段階を経て、仕事に自信が持てるようになりましたか?

給与計算業務があるのですが、「前任者よりもミスが少ない」と言ってもらえたことや、求人広告の誤植を事前に見つけたことで会社に貢献することができ、手応えを感じるようになりました。自信がある、とは今でも言い切れないのですが、振り返ってみると、安定して働けるようになったんだなと実感しています。

-そのために心がけていることはありますか?

よい睡眠を確保するために、仕事で不安なことがあった時は、勤務時間内に相談してから帰宅するように心がけています。最近は年齢を重ねたせいか、あまり家でくよくよすることはなくなりました。「明日のことを思い煩うな」という、キリスト教会で教えていただいた言葉も支えになっています。まだ起こっていないことを苦慮して疲弊するよりも、その時に考えて対処するように切り換えています。

-目良さんの言葉は心に沁みるものがあります。以前「強くなったよね」と声をかけたら、「強くなったのではなく、弱さを暴露できるようになりました」と答えて下さったことが忘れられません。

当時、ちょっと体調を崩しかけていたのですが、なんとか持ちこたえることができました。良くない状態の自分も受け入れてもらえたからリカバリーすることができた・・・と感じ、出てきた言葉。自分も人に対して完璧を求めるのではなく、相手の弱さを受け入れるようにしています。お互いの弱さを助け合い補い合うことで親しくなれますし、弱さは人間関係の潤滑油だと思います。

-たしかその頃、久しぶりに海外へ一人旅に行かれたんですよね。

約10年ぶりの海外旅行でした。大晦日に台湾でカウントダウンの花火を見た時に「がんばってリカバリーできて良かった。やっとここまで来れた・・・」と鳥肌が経ちました。

-働き始めて、もうすぐ16年。語り部の会で「この病気になってよかった」と目良さんがおっしゃったことが、とても印象に残っています。

私は病気になる前、人間関係もうまく構築できず、頭でっかちな人間だったと思います。病気になったことで弱い自分を出さなくては、社会の中で生きていくことができなくなりました。【JSN】の方々や病院の方、たくさんの方に支えられて今の自分の生活があります。もし病気になっておらず、自分の力だけで生きようとしていたら、ストレスを沢山抱えてすごくギスギスした生活になっていたと思います。病気になったお陰で家族と話す機会も増え、母親は大阪府精神障害者家族会連合会や高槻の家族会などに参加して、横のつながりができたそうです。「色々な人との関係ができ、勉強させてもらうことができて良かった」と言ってくれています。とても嬉しいことです。

-目良さんには本当に大事なことを沢山、教えてもらいました。

【JSN】のスタッフさんには、今でもサポートしていただいています。就職して時間が経っても関係性が切れることなく、いつでも話を聞いてくれます。ありがたいなぁと思います。精神障害で困っている人は沢山います。自分もそういった方々の助けになりたいですし、経験を伝えていきたいです。